209号-2014.12.25

[ 2014.12.25. ]

209号-2014.12.25

ミス(失敗)は何時でも何処でも起こる。だから起こってしまったミス(失敗)を、次回ドウ防止するか?がポイントになる。しかし、通常の組織ではこれが中々できない。
明日はわが身と原因究明を最後まで愚直に追及しないから、真の原因があぶりだされてこない。

大抵の改善策の答えは「今後注意します! チェックを強化します!」で終りだ。
こういう理由は「一時しのぎの弁解」だから改善もされない。
個別的、具体性がないから改善できる訳がない。
原因究明をないがしろにし、次回の防止策につながらない者は組織を疲弊するだけだ。

「ハインリッヒの法則」から言えば、ひとつの事故には幸いにも事故に至らない「ヒャッ」とした事例が300もあるという。普段見逃されやすい、見落としやすい小さな問題を拾い上げる必要がある。「こんな程度のもの」がありえない事故につながる。

一時「想定外」という言葉が流行ったが、本来「想定内」自体がありえないのだ。想定内であるとは予見できたということに他ならない。だから、これを「未必の故意:みひつのこい」とも言う。

ミスは故意ではなく、過失で起こる。予見可能性があれば責任を問うことができるが、予見可能性がないならば其の責任を問うことは近代法の原理から言ってもできない。勿論、予見可能性に至る過程で過失があれば当然責任を問うこともできる。通常の注意義務がなされていれば一般的に免責になる。それも、経験、役職に応じて異なる。夫々の立場で問題を拾い原因を究明することが必要だ。それが再発防止の情報共有につながる。これがないと単なる犯人探しで終わってしまい、組織上の問題としては解決されないことにもなる。旧軍にもこれがあった。作戦上の失敗は、全て参謀という立案者ではなく現場の指揮官、それも下級指揮官という個人に取らされた。だから其の失敗は全軍に共有されず同じ失敗を繰り返した。これを米軍は予め想定して陣営を組み、ことごとく日本軍の攻撃を撃破した。旧軍はくさいものに蓋をしただけでなく、事実を見ようとしなかったわけだ。つまり、負けるべくして負けた戦いという事になる。現在の会社組織にも言える。
「人は信用するが仕事は信用しない」組織風土こそミスを経験知として活かす企業だといわれる。加えて、担当者任せにしてチェックができていない事も大きい。
できない理由は何時も同じだ。だから、何回でも同じようなミスが起こる。過失は殆どが意識しないで起こるので、他部門や忙しさのせいにして誰も責任をとろうとはしないし、本人もミスに対する認識がない。近代法制は意思主義といって「故意、過失」がないと責任を問われなくなっている。

しかし、会社組織では「結果責任」で当事者の意思は不問にされる。だから個人責任ではなくまず組織責任が追及される。組織としてミス防止に取り組まなくてはならない。勿論、個人責任は内部では追及されるが、本質的問題ではない。システム化(見える化)するとは、
①  誰が何を処理したか             
② 誰がそれをチェックしたか
③  担当者がやるべき事に漏れはないか      
④ 次工程に何時・誰が・どの様に渡したか
⑤  それを誰が・何時・どの様にチェックしたか 
⑥ その教訓をどの様に残すか
が必要なのだ。これを毎日愚直にやり続けることが、大切なのだ。

 毎日、通勤で電車に乗ると思うが、運転手の交代時に運転手は何をしているか? 運転手が交代する時は、交代の運転者が運転席で「指呼」といって一々運転席の各部を指で指し、一つ一つ「よしっ」「よしっ」と言っている。降車する時も必ず運転席から出て、電車前面に来て一々各部を指し「よしっ」「よしっ」と言っている。ベテランでも毎日毎日、何十年も同じ事を繰り返している。それを愚直に繰り返している。衆人環視のときでも同じで、繰り返している。私はこういうときはいつも足を止めて、見ているが、そしていつも思う。こういう愚直な繰り返しが事故防止につながっているのだ、という事を。
我々の会社も同じだ。往々にして慣れるとこの一番大事な点に手を抜くのだ。今回もそれを指摘したら同じ答えが返ってきた。前にチェックリストを作成したが、「項目が多くて大変だからやめました。それは、もうわかっているから」という理由だ。わかっているけどミスが起こる。ミスが起こるからやる必要がある。だから組織にはそれをチェックする管理職が居る。

ヤクザは「なぜ指をつめるか」、勿論、落とし前をつける、自分のミスに責任を取るからだ。しかし、もうひとつ重要な点がある。
「指をつめる行為」はそれがいつでも自己の失敗の記憶として永久に残るからだ。再発防止という観点で、組織の記憶としても残す必要がある。今は昔のように「やくざ」は居ない、「暴力団」しか居ないので指をつめる行為は、自分の勲章か、相手に対する示威くらいになっている。それからいえば指を二本以上つめているやくざは無能だという事になる。だから彼らは、当然重要な仕事は任されない。

有名な話がある。超優良企業といわれる「トヨタ」のことである。愛知県長久手町の「トヨタ博物館」では、来店者の目に触れる展示室ではなく非公開の薄暗い車庫の隅にひっそりと置かれている車がある。その一つに「パブリカ」がある。1955年通産省(現経済産業省)の国民車構想による「日本版フォルクスワーゲン」計画に沿ったものがあった。当時技術担当専務であった豊田英二が開発し、一般公募で「PUBLLIC CAR」を略して「パブリカ」と決めた。
トヨタ史上唯一となった空冷エンジンを装備し、価格も38.9万と軽自動車並みで販売した。
しかし、この車は予想に反してあまり売れなかった。
展示の説明パネルでも「安価を追求しすぎ高級感を大事にする顧客心理を読み違えた」と素直に失敗を告白している。
銀幕を飾った「成功の証」に酔わず、ほろ苦い「失敗の証」を大切にし、明日の糧とする。トヨタを「世界のトヨタ」にしたものは浮つくことのない「もの作りの心」である。

今の浜松市にある三方が原の戦でも同じような逸話がある。武田信玄との戦いで徳川家康がコテンパンにやられ、馬上で脱糞しながら城に逃げ帰った時に、自分の惨めな自画像を絵師に書かせ、飾らせていたという。終生、この惨めな姿を忘れない為だといわれている。この事例は、いかに失敗やミスを組織で共有し教訓として活かしているか、である。「初心忘れるべからず」は世阿弥の「花鏡」という伝書に書かれている誰でも知っている言葉だ。通常は、「初めの志を忘れてはならない」と理解されているが、本来の意味は「人生の試練のときに、どうやって其の試練を乗り越えていったのかという戦略や心構えを忘れるな」ということらしい。

「最初の志」ではなく年齢に応じたステージで、未熟であった時の最初の試練や失敗こそが、初心という言葉の本当の意味で、未だ経験したことがない事態に対し、自分の未熟さを知りながら、其の挑戦する心構え、姿に他ならない。「隠したい!」「知られたくない!」といった様な企業文化の中では顧客思考の組織は生まれない。イノベーションも生まれないし、社員の溌剌さもない。

失敗やミスに問題があるのではない! 同じ失敗やミスを今後起こさない組織と自覚が必要なのだ。