[ 2012.6.29. ]
179号-2012.6.25
大体「忙しいから・・・」と自分のミスや成果の達成度を言い訳にする社員に期待はできない。忙しい「忙」の字は、心(りっしんべん)を亡くしていると書く。
忙しいと頭が動かなくなってしまう。頭が動かなければその命令下にある手足は必然的に動かない。しかも頭が動かないからまともな考えも浮かばない。
よってチグハグな動きになったり、企画案や提案も時間をかけた割にはたいしたことにならない。「心」もないから仕事に誠実さも感じられない。相手の身になって考える事もできないし、何時もやっつけ仕事になってしまう。
当の本人はそれなりにしたつもりで居るから始末が悪い。提案書などを見れば直ぐ分かる。自分の都合で書いているから、何を提案するのか、どこを強調するのか全く不明なことになる。最悪な場合は内容以外のどうでもよい表紙とかカットなどに時間を使っているから、時間=成果となり的外れで自己満足の世界だ。
肝心なところは殆どないに等しい。事前に点検しないと大恥をかく。突っ込めば、後は不足部分を口述でカバーするという。営業社員に限らないが、この手は間違いなく成果の上がらない社員だ。加えて日常業務でも顧客からもクレームも多くなる。最悪の場合は「あの人交代させてくれ」「強引なだけだし、何時もワンパターンで、こちらの都合を聞いてくれない」評価になってしまう。
提案書の意味は「その提案書が残る」点も忘れている。大体ビジネスシーンでは最初のシーンで即決することはない。主権者は当然だが副主権者(契約に影響する立場の人)や決定権を持つ以外の人にも意味が伝わらなくてはならない。その場に居ない人にも理解できる内容が必要なのだ。これは何時も意識して訓練しないとできない。「仕事を頼むなら、忙しい人に頼め」とよく言われるが、忙しい人に物を頼めるわけがない。「そんなこと自分でやれ」でお終いだ。「暇そうな人に頼んだ」方が間違いがない。「忙しそうにしている人」ではない。
「忙しい人は確かに有能だ」「暇そうにしている人」とは評価が分かれる、有能で処理能力が優れているか、誰からも相手にされないかだ。「忙しそうにしている人」は間違いなく無能と考えてよい。仕事を頼むほうも、そこを計算に入れておかないと「二重手間」になるような成果しかでてこない。
一昔前ならこんな社員は「バカ・無能・ごくつぶし」で「会社を辞めてしまえ!」だった。提案書などは本来の仕事ではなく「帰社後する雑務」だった。
営業会社の基本は「売り上げがない社員は一人前の事を言うな」「売り上げを作ってから文句を言え」だ。強い会社の「パワハラ」は日常茶飯事で、そこに営業の原点があるからだ。競争に打ち勝つ必要があるからだ。
戦争中にパワハラを言う兵士がいるか? 即、抗命罪で銃殺になるか、軟弱な精神の持ち主として徹底的に暴力という「大和魂」を注入される。ビジネスは常在戦場であることを忘れてはいけない。パイの取り合いだ。全員に行きわたる事はない。勝ち負けがはっきりしている。理由は必要がない。結果のみだ。
弱い社員がいるほどパワハラが叫ばれる。
なぜか、それが自分を守る盾になるからだ。勝者や強者にはパワハラはない。弱い社員ばかりいる会社で生き残っている会社はない。パワハラの最たるものである「村八分」は組織の同一性と存続をかけた掟なのだ。そこには「その組織を出て行く」か「忍従する」しか選択肢がない。「掟破り」「異端者」を囲う余裕がないのだ。生存を保障され組織から脱退もせず「パワハラ」を叫ぶ論理が理解できない。
成果の上がらない社員は自分の弱点を認めそして直せばいい。「弱点」も意識できないなら「どうしたら相手に喜ばれるか」を四六時中考える。そうすればどんな相手でも好意を持ってくれる。それがあればビジネスシーンの展開は楽になる。よく「欠点を指摘するよりその人の長所を伸ばせ」とビジネス書には、どこでも書いてあるが本当にそうか?
人を判断するときはまず欠点を見る。ドンナ長所があっても欠点は相手の心から消えない。ビジネスシーンでは欠点「嫌な奴・ダメな奴」は致命的だ。何も親族関係を結ぼうとしているわけではないので、長所欠点より「相手にいかに好かれるか」がポイントになる。後は「人の倍動けば」いい。自分のマイナスは机上で考えても意味がない。動けば間違いなく成果は出るし、顧客に対する反応も鋭敏になってくる。しかしこれが簡単そうで継続するのは大変だ。当社でも一日の営業一人当たり新規来店客接客数は0.5人しかない。
ある建築会社の新入生は1000本ノックといって3ヶ月間1000人の面談を課せられる。一日約15件だが、不在もあるので一日50件の訪問が必要になる。
当社の30倍になる。業種が違うのでそのまま比較はできないが、その程度の面談をしないと顧客の大切さも分からないし、応酬話法も身につかない。顧客の立場で考えるなんて問題外だ。顧客の気遣いや顧客の痛みが解って初めて、顧客から信用を得られる。面前で言われなくても「知らないうちに他社で建築した」「他社に依頼した」ケースは、その社員はあてにしていない、来なくてもいい、残務処理だけさせよう、くらいのレベルでしかない。最初はどんな社員でも、ある程度は「期待値」も含めて付き合ってくれる。
しかし、長年にわたり評価される社員でないと、あっても暇つぶし程度か、愚痴や不満が言いやすいから程度のお付き合いで終わる。私は顧客からの紹介や頼みごと、お礼の言葉がなければその社員を評価しない。それも長年お付き合いしている方からが重要だ。何故なら、他社の営業マンとの付き合いやプレゼンの嵐の中でもその社員が評価されているから。つまり選ばれた社員である証明だといえる。これが会社にとって「人財」という。
山本五十六の言葉で「言って聞かせ、やってみて、褒めてやらねば人は動かじ」という有名な言葉があるが、情報がない時代ならいざ知らず、情報があふれている時代には通用しない。上司が知っているレベルは一般社員でも周知しているし、あとは行動するだけだ。 そこで上司が後押しする必要はない。上司、会社は動ける環境を作ればいい。走り出すのは本人自身になる。上司は「叱る」のであって「怒ってはいけない」とよく言われる。「叱る」「怒る」はいつからこんなに意味が変わったのだろうか。
人は「叱られる」から「怒られる」からキチンとする。あえて区別する意味はない。「言葉遊びの好きなコンサルタントや学者先生」の戯言にすぎない。
あえて言うなら「叱る」は冷静で理論的、「怒る」は感情的で非論理的といえる。
どちらにインパクトがあるだろうか。「怒鳴られた」から「怖い」から二度と失敗はしないようにするのが普通ではないだろうか。 「叱られた」からよりも再発防止には効果的ではないだろうか。「怒鳴られた」中に「憤怒」を秘めているから効果がある。憤怒を込めていない叱りは再発防止にはならない。人類のDNAは本能的に「身の危険を避ける」事で生き延びてきた事実を忘れてはならない。
同じことを会社の上司から言われれば「パワハラ」になり、自分の夫人から言われても「パワハラ」とは言わないが、自嘲的に「恐妻家」となるだけだ。組織の目的は同じ「永続性」だが家庭の方が「地位利用」は強力だ。言葉による人権侵害も無視できない。区別する理屈は様々だが、当の本人にとっては同じかそれ以上に違いない。組織構成員とそれ以外では
当然異なる。人間は理屈では動かない、怖いから動く。「人前で怒ってはいけない」「褒めるときは人前で」なんて、いつからこんな事になったのだろう。褒めるときも、怒るときも、人前が原則だった。「一罰百戒」は死語になった。「恥をかかせない」のは恥をかかせる方ではない。「恥をかきたくないから恥をかかない」ようにする。モット自分を鍛えるために厳しく自分自身を見つめる必要がある。会社組織は強くなる為の「共育と規律」が必要だ。モヤシのようなガラス張り社員ばかりでは会社は存続できない。
社長 三戸部啓之