290号-2021.9.25

[ 2021.9.1. ]

290号-2021.9.25

業務の基本は「ホウ・レン・ソウ」と言われている。

いうまでもなく「報告・連絡・相談」だだ。これは最近、上から目線だと評判がよくない。これでは上からの指示で動くようになり、自律性が阻害されているから、らしい。「ホウ・レン・ソウ」が出来る職場の雰囲気作りや上司の姿勢が問題という事になった。

パワハラに戦々恐々としている管理職や企業を見て、コンサルタントが新しい商材として飛びついたことにある。そこで「オ・ヒ・タ・シ」なる言葉が出てきた。部下の報連相を受けた上司の心構えを言うらしい。

:怒らない、:否定しない、:助ける(困りごとがあれば)、:指示する」である。
小学生でもわかる仕草が、大人でもなかなか実行できない事を証明している。

更に、やってはいけない「ホウ・レン・ソウ」をやっている可能性もある。
「上司が部下に」だ。意外にこれをしている管理職が多い。すぐにパワハラが頭によぎり下手に干渉すると予想外の反撃を買うからだ。

まず、やってはいけない「ホウ・レン・ソウ」のホウ「放任」だ。
信頼して部下に仕事を任せるのは、部下の成長にもつながる。ただ、部下に任せるとは言え、ほったらかしにすることとは違う。それは仕事を任せるではなく、仕事の丸投げだ!仕事の丸投げをされると、部下は報告も連絡も相談もできない。そして、最終的に何かあって情報共有されていないことが発覚して大慌てということになる。最近の若い社員だけでなく管理職も、与え、与えられた仕事の前に、何を、何故、何処で、何時までに、どの様に、という「4W1H」を指示したり、確認するという事がない。

最近の若い社員は本を読まないから読解力に乏しいし、語彙が乏しいから表現力も少ない。だから往々にして当初の思惑と違う成果が出てきたりして大慌てする事がある。それも納期直前だからやり直しも難しい。丸投げした仕事に対して「お前に任せた仕事だろ(だからお前の責任)」と上司が「傍観者」を決め込むという事にでもなれば目も当てられない。

この事例は多く、部下との信頼関係は崩壊するし、その上司も管理責任を問われる事になる。意外なことだが、このような上司でも大きな組織では上手くすり抜け、自ら火の粉をかぶらずいられる稀有な人物もいる。対外的評価も高く経営トップになった者もいると聞く。過去の記憶では、一部上場会社の経営トップで「食品偽装問題」で馬脚を現したシーンがある。

次に、やってはいけない「ホウ・レン・ソウ」のレン「連想」だ。
例えば、「この間も失敗した」ということを、今現在起きている問題につなげてしまうことはないか?自動的に「やっぱりな~」「だからな~」というダメな方に連想が働くのではないか。

そうなると、「できていない」「できない」ことを前提に話すことになる。ただの確認のつもりでもそれは「詰問」になるし、部下のためのアドバイスのつもりでも「ダメだし」にもなりかねない。それでは、「ホウ・レン・ソウ」も、しにくい状況を生むことになり、風通しどころか、風の通らない遮断状態になる。もちろん、何度も繰り返し同じ間違いをすることを良しとするということではない。同じ失敗が起こるのは本人の能力の問題なのか、本人だけではなく職場環境の問題なのか、ルールや仕組みがあれば起こらないことなのか、上司が考えなくてはいけない事は沢山あるはずだ。目の前の一点からの「ダメ連想」だけでは部下の成長は望めない。組織防衛と自己保存本能からも害を与えるものに対して「レッテル貼り」をして警鐘行動を示すのはわかるが、営利企業では通じない。

欧米のように簡単に解雇ができる訳でもない中では、そのような社員を善導し戦力化していかなければならない。上司のストレスは如何様かと同情はする。そのような苦悶の最中にある上司に幾許かの配慮があれば組織は活性化するだろうが、宇宙人に等しい若い社員には到底望まれる事ではないと諦念するしかない。

最後に、やってはいけない「ホウ・レン・ソウ」のソウは、「そうに決まってるだろ!」だ。
これは、部下に対して「そんなことも分からないのか」「そうに決まっているだろう」と決めつけるという意味ではない。自分の中では「そういうことだと決まっている」訳で、それを口にしないでいるということになる。つまり、伝えていないという事だ。

自分にとっては当たり前で、自分の中では全てつながっていることであっても、言わなければ伝わらない。伝えてもいないものを、理解してもらいたいというのは無理難題に等しい。
「ホウ・レン・ソウ」は、部下ばかりではなく双方にあるという事だ。

もしかしたら、職場に限らず家庭の中でも似たようなことがあるかもしれない。特に「そうに、決まってるだろ!」と自分だけが納得して言葉にしていないこともあるだろう。
夫婦関係の冷えた中ではありうることだろう。親子関係でも頻繁に起こる。話す言葉も返す言葉もなくなる。離婚の原因の多くが「性格の不一致」とあり、その主因の「夫婦間の会話のなさ」がこれを裏付けている。お茶のコマーシャルで大賞を取った「お~い、お茶」ならまだしも、最近では「お~い、あれ!」で通じるほど会話は乏しくなっている。これは仕事上で通じるほど子細にわたり把握しているなら「阿吽の呼吸」と言えるだろうが、今はそこまでの緊密さは望めない社会である。コロナ禍で益々コミュニケーションの不足が声高に言われているが、共通の言語様式がない中では難題と言える。

人と接触しなくても生きていける社会を作ったのも、我々世代だという点を忘れてはならないし、その便利さを批判もなく享受したのも我々だ。その反動が現在の状態になる。スマホの登場で肉声での会話もなくなり、絵文字やメールが当たり前になった。調べ物も辞書や辞典ではなく「Google先生」になった。解らないシキタリや慣習も簡単にネットで検索可能だ。昔からの知恵も長老に聞く必要はなくなった。
買い物もネットで済むし、コンビニに行けば総菜や食材が簡単に手に入る。人を介することがなくなったのだ。先祖返りともいえる。昔は食事をしながらの会話はご法度だった。早飯が当たり前だった。食事をしながら会話を楽しむのは、欧米化が進みファミリーという集合体が認められるようになってからだ。

生産と消費が分離し、個々の生活時間が異なると生活パターンが種々になる。核家族化が進み孤食という状態が当たり前になった。人とのやり取りや会話も不要になる。当然言語機能も衰えてくるはずだ。家族という連合体ではなく、単なる同居人となったのだ。

勤務先でもディベートなんかは望むべくもない。会話の作法も知らないから討論ではなく人格攻撃になる。協調性とか社会性とかは死語になりつつある。組織を維持する共通の絆が不透明になったのだ。危機感を持った企業側が改めて、企業理念、企業の目的を強調し始めたのも理由がある訳だ。

                                                               会長  三戸部 啓之