215号-2015.6.25

[ 2015.6.25. ]

215号-2015.6.25

 

今年3月5日~6日にかけて、当社が所属する「神奈川県中小企業家同友会」が幹事となって「中小企業問題全国研究集会」がみなとみらい地区にある「パシフィコ横浜会議センター」で開催された。神奈川はもとより全国から1200名の会員が参加した。そこで、神奈川県中小企業家同友会の会員でもある、シウマイで有名な崎陽軒 野並 直文社長の基調講演があった。

創業1908年(明治48年)資本金3億4000万、社員数506名、年商212億円の老舗企業だが、其の講演はかなり刺激的なものであった。まず、経営理念は3つある。

①  崎陽軒はナショナルブランドをめざしません→真に優れた「ローカルブランド」をめざします。※「めざしません」という否定形ではなく「めざします」と肯定形にした理由は前向きにベクトルをあわせることにある。

②  崎陽軒が作るものはシウマイや料理だけではありません。常に挑戦し「名物名所」を作り続けます。※1872年(明治5年)全国で初めて鉄道が開通(横浜~新橋間)。この鉄道を契機に一躍有名になったのが崎陽軒のシウマイ。静岡には「わさび漬け」、小田原には「かまぼこ」というように、その土地土地に名産品があったが、歴史の浅い漁村の横浜にはそうした食文化が熟成していなかった。そこで「何もないなら作ってしまえ」と初代社長 野並 茂吉氏の発送と心意気があった。

③  崎陽軒は皆さまのお腹だけを満たしません。食を通して「心」を満たすことをめざします。

経営理念は何処でも作っているが、それをドウ社内で活用し浸透させているかが、ポイントである。しかし彼の会社も当初は「単なる壁飾り」に過ぎなかったらしい。入社試験で始めて経営理念に共感したという女子学生がいたが、人事担当の役員が其の経営理念を知らずにあわてたエピソードもあった。これではイカンということになり、より社員に定着しやすい経営理念が必要になった。そこで三代目の直文社長の社長就任時に現在の内容に改めた経緯がある。

経営理念を作る事は、「会社の方向性を指す」為でもあるが、違う方向へ向かう社員を排除する論理にもなる。商品開発の担当が経営理念に合わないからといって退職した事もあった。非常に優秀な社員であったらしいが、其の社員は売上げの増大には「コンビニ弁当」志向するしかないと強調した。ここでの駅弁とは「此処でしか買えない」ものを売りにしている為、結局袂を分けてしまった。組織を構築する為には、まず同じ考えと行動ができる「金太郎飴社員」の育成がポイントになる。

会社の危機もあった。「食品偽装問題」と、いわずと知れた「バブル」である。食品偽装問題は対応の仕方次第で倒産にいたった名門の雪印食品、賞味期限偽装の「白い恋人」他数多くあった。彼の会社の場合は、食品成分がJAS規格どおりに表示していなかったことにある。しかし、シウマイの主要成分であるホタテの貝柱は、仕入れ時には乾燥しており、料理時に水に戻す為夫々目方が異なる。JAS規格では成分量は重さの順位で表示する為、同じ物だが表示の順番が異なり、マスコミの取材攻勢を受けた。当時には珍しい専門の弁護士等の助言を受け、武装して乗り切った話等興味深い。その対応に失敗し、社長更迭は勿論倒産にいたった会社もあるからだ。思い浮かぶのは小職の高校の同級生であった「東横イン」のN社長である。

一時は女性活用の先駆的企業とまで持ち上げられた経営者だが、記者会見後の「単に40キロのところを60キロで走ったようなものだ!」との話が後日大きく報道され、「コンプライアンスを問われ順法意識がない!社会的弱者保護の意識がない!」とまで糾弾され辞任にいたった。勿論社会的生命まで失ってしまった。

マスコミに配布する文書の文言も一字一句注意する必要がある。これは文書は勝手に一人歩きするからだ。よくあるのが「●●により発覚した」、これは一般消費者には、改悛の情がないなど否定的に捉えられる。同じ意味でも「●●が判明した」の方が好意的に取られる。公式会見後は報道陣と帰りの導線を変える必要があるらしい。それは先ほどの「ぶら下がり取材」を許すからだという。会見後「ほっと」した気持ちを突いて取材陣に気を許し余計な発言をするからだという。「資料は小出しにせず、負けっぷりをよくする」は取材陣やそれを見た消費者には好印象を与える。というものも、実際に体験したことから出る話だ。

地ビールの製造販売やリゾート勧誘が金融機関やコンサル会社からあったが、バブル時も「身の丈経営」に徹したため、乗り切れたと話されていた。

駅弁開発秘話も興味深い。何気なく食べている駅弁だが、外国では「冷めたものを食べる文化」はなく、日本独自のものだ。この「駅弁文化」は調理して食べる文化とは相反しており、非常食(戦闘食)に近い。レストラン等の職業分業の発達していない社会では、全て自前で作る必要がある。お弁当というカテゴリーに入る。其の象徴的な食べ物が「おにぎり」だ。そういう文化が根付いている中で開発されたが、横浜駅では売れなかった。上りの東海道線では駅弁は東京駅で購入し、横浜通過時点ではちょうど食べているころだし、下りでは、後20分くらいで東京に着くので買うことがない。

又、昭和3年発売のシウマイ、出来立ては美味しいが冷めると不味い。それは中に入っている豚肉の匂いが関係している。そこで冷めても美味しいシウマイの開発が始まった。従来の豚肉だけからホタテの貝柱入りにしたところ匂いは解決した。しかし当時の南京町(今の中華街)の中華料理店から引き抜いた開発責任者だった中国人のゴウさんは、そのレシピを決して教えなかった。今でもそうだが、シェフは自分の開発した料理のレシピは本人の発明に近く、財産として教えないからだ。そこで2代目社長は調理場においてある調味料や材料の残量を、終業後毎日ノートに書きとめ盗んだという。ところで我々は普通「シューマイ」というが崎陽軒では「シウマイ」という。これは創業者が栃木県出身なので栃木弁ではシューマイとは言えずシウマイと発音するからだという。

弁当箱にも工夫がある。今はやりのプラスチックではなく、経木でないとあの味が出ないらしい。醤油さしの「ひょうちゃん」は昭和30年の登場で、挿絵は漫画家の横山 隆一氏のものだが、60種類のものがあるという。一度改めて見てみたい。

ご飯にも一味違いがある。「蒸しがまの原理」で蒸している為,おこわと同じくモチモチ感がある。それも従来のやり方だとおこげが大量に出て捨てられているのを見て、もったいないと考えて改善した結果だった。

販売促進に昭和25年「シウマイ娘」を登場させ話題を作った。昭和28年、獅子文六の連載小説「やっさもっさ」にシウマイ娘が登場、映画化にもなった。

シューマイを売っているのは崎陽軒だけではない。其の中でいかに崎陽軒のシウマイが横浜で愛されているかは、様々な工夫とマーケティングの結果であり、ぶれない経営理念という軸があったからだ。弊社も地域に生きる不動産管理会社として心新たにした。

社長 三戸部 啓之