[ 2018.3.25. ]
248号-2018.3.25
ある得意先の支店長から「御社の○○店は気持ちがいいですね!」と言われた。その理由は、いつ訪れても社員の挨拶が良いからだ。
今日も言われた。辞去する時に、事務所内にいる社員全員が立って挨拶している。それも、見えなくなるまで頭をあげていない事が印象的だったのだろう。他店でこれができている店は余りない。ひどいのになると、顔を上げず、ひたすらパソコンをたたいていたり、チラッと上目使いで見ただけでそのままという社員もいる。この手の社員はサービス業には向かない。接客を主体とする業種には無理だ。もっとはっきり言えば、人前に出てはいけないのだ。返ってマイナスになる。どんな場所でも忙しい。仕事も中断する。それでも挨拶がきちんとできる社員もいるし、できない社員もいる。大体挨拶がきちんとできる社員は業績もいい。仕事が楽しいと顔にも書いてある。
倒産する企業の共通点は「挨拶がきちんとできているか」「事務所内の整理整頓ができているか」であるという。挨拶がきちんとできるという事は、「お客様に感謝をしている、お客様のおかげで当社が成り立っている」と社員全員が理解しているからだ。
感謝の気持ちがあれば、間違いなくそれは態度に表れる。商品や販売方法にも表れる。もっと喜んでいただきたいと考えれば単価も下がり、より付加価値のある商品を提供する。結果、売上げも上がり利益も増えることになる。益々社員の態度に現れ好循環サイクルが回る事になる。
事務所内の整理整頓もそうだ。整理は常に最新の情報に基づいた資料が準備されていることだし、社員の商品知識レベルも最新版に更新されているし、そのプレゼンも的確になっているという事だ。
整頓は不要不急なものがないという事で、必要なものの取り出しがいつでもどこでも可能だという事になる。しかも不要な資料や在庫がないからそのスペースもなくなり、商品の回転率もいい。そして、企業の利益に貢献し資金回転もスムーズになる。この当たり前の事が出来ている企業は少ない。
挨拶一つとっても強制する事で一時的な繕いは可能だが、顧客に感謝するという気持ちがなければ画餅に帰する。お客様は心から感謝しているのか、形だけなのかは直感的にわかる。温かみのあるオーラがなければかえって白々しい。
当社にいる限りは、この程度の挨拶は当たり前として強制する。残念ながら、まだその段階なのだが、「何故なら当社に態々来ていただいたお客様」なのである。商品を売り込みに来る方もいる。無関係な話で来られる方もいる。勿論ビジネスで来られる方もいる。様々な方が来られる。
仕事が中断する、集中力がなくなる等フロント業務に居る事務社員の気持ちは理解できる。しかしどんな方でも当社にプラス、マイナス情報をお持ちいただいているのは間違いがない。それなりの節度ある対応と相手に気持よくお帰り頂くのはビジネスマナーと言える。
例えクレームであっても来社するというのは電話では話が済まないからだと考えるべきだ。原因を作ったのは当社社員である点を忘れてはいけない。その殆どがコミュニケーションギャップである。言った、言わないというレベルの問題だ。そこに「つもり」が入れば自己正当性に確信がつく。人間の脳は今までの経験と異なるものを無視する。余程ショッキングな出来事でない限り脳の記憶素子に学習させることができない。記憶として残すにはその経験を消去させる新しい知識の刷り込みが必要だ。印象に残る記憶媒体がないと記憶としては残らない。普通商談のシーンでは、結論だけで済むものではなく、その前後に様々な話をしている。つまり時間的経過に伴い印象の薄い事柄は忘れられてしまう事になる。だから「メモを取る」「重要な点を繰り返す」「後で反芻出来るように書類で残す」が必要だ。最近気になるのは、まず言い訳をする社員が増えてきた事だ。まず、自分のどこに問題があったのかを素直な心で点検してみる事だ。言い訳をする社員ほど聞いていて周りは白ける。
自己弁護からは反省は生まれない。反省が生まれないという事は、それ以上その社員は伸びない事になる。
上司は単なる仕事のスキルだけでなく、そういう隠れたものを評価するべきだ。又、それができない社員にはそれなりの評価を毅然と示すべきだ。
組織にとって一番困るのは「能力は優れていても会社にロイヤルティーのない社員」だ。「能力はいまいちでも会社に対してロイヤルティーのある社員」を大事にするべきなのだ。彼なら顧客に対して誠心誠意尽くすだろう。挨拶という小さな出来事にその社員の裏面すべてが見える。その辺の客観的な判断ができるリーダーが必要なのだ。
問題社員を何とかしたいというのは、企業にとって深刻な問題だ。こういうことは、戦国時代の昔からあった。役に立たない部下をどうするかについて、古来、信長、秀吉、家康の有名な話がある。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」 これは勿論、織田信長だ。
「鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ホトトギス」こちらは、人使いの名人、豊臣秀吉だ。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」 これなんか、高度経済成長期の日本の大企業の考えのようだ。さすが、江戸幕府を作った家康である。
戦後の高度経済成長期で活躍した松下幸之助が、「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」 と詠んだのも、家康と同じような自信があったからだろう。どこかしらで、この人も役に立つことができるはずだ、自分ならそれができるという自信かもしれない。
新聞紙上でみる通り、多くの企業では、問題社員の扱いに困っている。問題社員と言われている人の中には、会社から「何もしないほうが良いので、給料だけ支払うから、会社に来ないでくれ」とまで言われていても、本人には自覚がなく、「自分は会社の役に立っている、悪いのは他人だ!」と、心から信じている。こういう社員に対して、アメリカの法律では、基本的に、バッサリと首をはねることができる。
「鳴かぬなら お前はクビだ 」これは、日本企業から見れば、うらやましいことだ。しかし、アメリカの場合、労働契約で、それぞれの従業員の職務範囲が決められている。つまり、「鳴くこと」が職務範囲に入っているからこそ、それができない場合には、解雇できるわけだ。
それに対して日本の場合、特に「何が職務だ」と決めずに採用するのが一般的だ。こういう事情も相まって、日本の裁判所は余程のことがないと解雇を認めない。
「鳴かぬのは 会社が悪い」 というのが、日本の裁判所の基本的な考えらしい。具体的に裁判所が会社に求めるのは、次の2点らしい。「鳴くように 教育しなさい 」「鳴く場所に 移せばいい」大企業ならこれも可能かもしれないが、「中小企業にここまで要求するの?」という不満はある。法律は、「悪」の資本家から従業員を守るという建前で作られている。世の中には、「ブラック企業」としか言えない会社が存在するのも事実だ。しかし、多くの中小企業は、苦しい資金繰りの中、従業員のために頑張っている。
サボってばかりいるくせに 、「 仕事をしろ!」と怒られると 、「 パワハラだ」なんて騒ぎ立てる従業員を何とかしたいはずだ。かつて優秀な人材であった大企業の社員も、賞味期限が切れたらこの騒ぎだ。辞める自由がなくなるこの時期に、出涸らし人材の言葉はどこも同じだ。「今迄、こんなに尽くしてきたのに会社の仕打ちはひどい」でもそれまで我慢してきた会社の都合も考えてほしい。昔は「古女房と畳は新しい方が良い」「24時間戦えますか」と人材を使い捨てにしてきたことがある。労働人口が少なくなる昨今では通用しないことも事実だ。
昭和30年代に集団就職で地方から上京してきた若者を「金の卵」として扱い、労働戦線に投入したが、今度はリタイア組や家庭の主婦まで動員する国家総動員体制になった。「多様性とかダイバーシティー」とか、頭の良い官僚は言葉で実態を糊塗するが、凄まじい競争社会に入ったという事である。戦時中も「撤退を転戦」「全滅を玉砕」と言って実態を見えなくしてきた。トレンドを見ると「AI:人工知脳」に置き換わる仕事は間違いなく増える。
今後、量の問題ではなく質の問題になってくる。機械に使われるか機械を使う側に立つかが突き付けられているのだ。
社長 三戸部 啓之