249号-2018.4.25

[ 2018.4.25. ]

249号-2018.4.25

組織の要諦である「報告」はいつも悩ませられる課題だ。
ある時、A君に頼んであった案件が、期限を過ぎても結果の報告がなかったので、A君を呼んで聞いてみた。


     「あの案件は先方と話はついたの? 期限は確か昨日だったと思うけど・・・」
     「アーそれなら先方から返事がないのでメールしておきましたけど・・・・」
     「??・・!」「なんだ?『メールしておきましたけど』って?」
     「期限は昨日だったろうが・・・!」「返事がなかったら電話するなり訪問するなりしたのか?」
     「・・・してません」
     「オマエな~バカか・・・・!」
今では他の部下が全員いる前で、大声で罵倒してしまったのはまずいという評価になっている。
更に「このバカが・・」という言葉もパワハラになるかもしれない。
昔なら「一罰百戒」として、組織を引き締める為にも必要とされた事だったし、それが全員に対する教育になったものだ。意識的に行う事もあった。
バカという叱責も直接相手の人格を否定しているのではなく、この程度の事も出来ないのか!という意味であり、誰しも疑問を感じなかったはずである。できる前提で組織に入っているはずで、できなかったら叱責は当然と受容したし、次回は怒られないように注意した。

叱責した言葉が「メールをしておいたこと」ではないくらい、昔なら分かっていたはずだ。
今でもこの「メールしておきましたけど・・・」という言い訳をする人に結構出会う。
この、「目先の手段の有無ではなく、目的の達成如何!」という極々当たり前の事が多くの人ができていない。
例えば、「資料を送っておきましたから・・・」みたいな感じで、「資料を作成して送ること」は本当に欲しい結果ではない。「相手に理解させ、知識を与えること」が、まずは第一の欲しい結果である。つまり資料を作るのはほんのスタートだ。そこからが本当の勝負なのだ。いかに小難しい内容を相手にわかり易く伝え、かつ相手の主張をできるだけ聞きだして合意にまで到達するか?の方が、遥かにエネルギーがいる。

何時のころからか、直接言われた事だけをし、「忖度:そんたく」する気持ちがどこかへ行ってしまった。会話の中でも「4W1H」が必要になった。「何故、何時、何処、何を、どのように」するかを話し、指示しないと相手が期待する正確な結果には至らない事になる。微に細に入り話さないと事が進まない事でもある。そこには人間的な感覚や機微はない。機械である。必要なボタンを入力し押さないと動かない事になる。押されないから免責という事にもなる。
この遠因は〇✖式教育方式と知識詰込み偏重教育にあるかもしれない。表層的な言葉尻で判断してその奥にあるアドバイスや奮起が促されるという視点が欠如している。
「すぐ切れる」という事が常態化しており誰も疑問を持たない。語彙も乏しいから言い方も直截的でオブラートで包むこともできない。路上や車内で「何でもない普通のやり取り」が大きなトラブルに発展している。普通の会話ができない、相手の言い分をキチンと聞くことができない。言い分自体を認めない、自己の言い分のみを相手に押し付ける。そこには対等の関係が作れない、上下の関係しかないから、弱者には必要以上に強く、強者には必要以上に媚びる。主張と主張の関係に終始し、結果的に相手が疲弊するか、その場を離れるかまで延々と続く、合意というものが形成されない。

相手の言い分を否定するだけで平行線が続く。決着はあるが承認は起きないから、後日の人間関係にもマイナス面が起きる。ビジネス環境では最悪の結果となる。こういう人たちが新卒として社会に大量に供給されている。
大学卒(昔は最高学府と言っていた)は喩え3流大学でも、大学卒としての矜持は持っていたはずだ。コンプレックスはあったが、一流大学卒にはないものがあるという意識は持っていた。
それが自己満足の世界であったとしても、それなりのプライドはあった。「俺は勉強ができないが・・はできる!」「・・だけは誰にも負けない」というパワーだ。それがコンプレックスの裏返しであっても、3流大卒人間の上昇志向の原動力になっていたはずだ。

何時のころからか、妬み僻みの固定化された階層と位置付けられてしまった。そこに弱者保護の風潮が入り込み「弱者」として保護を受けて当然という行動がはびこってきた。そこに他律的責任が蔓延したため政治や経済社会の犠牲者として位置付けられてしまった。弱者の定義も曖昧のまま保護思想で武装した自称弱者が跋扈してきたおかしな世の中になった。自己責任が問われない最強の攻撃力を身に付けたことになる。それを後押ししたのは「借り物の人権思想」だし、大手マスコミだ。戦後、占領軍が使った洗脳工作War Guilt Information Program(略称:WGIP)の残滓がまだあるかも知れない。大学も例外ではない、「アカハラ」という言葉まで出てきた。

「アカデミック・ハラスメント」という言葉だが、授業中、学生が質問され教師がそれを追求すること自体、御法度という信じられない風景になった。当の学生は質問に答えたくないから答えないのであって、それ以上追及すること自体問題になるという事である。これは教育の放棄であり学問自体が成立しない。当の教師がおびえるのは、学生は必ずその場面を録音するか、友達がその場面を撮影し、SNS等に投稿し「こんな教え方をする教師がいる!」と非難するからだ。勿論それだけでは済まない。聞いた母親や場合によっては父親が大学まで押しかけクレームをつけるという。

こんな軟弱で主体性のない若者が大量に社会に放出されることは憂慮すべき事態であるが、だれも真剣に向き合おうとはしない。若者は大人が鍛えなければ無理だ。教えられる立場にはある程度の我慢や服従が必要なのだ、それが精神を鍛え、学ぶ姿勢を知るのだ。目的に向かう意識と目標が出て挑戦意欲や達成意欲が仕事を充実したものにするのだ。基礎体力作りと同じで、つらい繰り返しが必要だ。ここを避けては大人になれない。大人になるイニシエーションがなくなって久しい。
人口減が日本の将来を左右するとマスコミは書き立てるが、その中身自体を問題にするべきだ。
自尊心ばかり高く、軟弱な若者が大量に供給されれば、企業は戦えない。

かって、帝国陸軍は兵隊試験で甲種のみを採用したが戦局が厳しくなると、採用基準を緩和し乙種、最後は学徒動員となり繰り上げ卒業までして戦線に投入した。結果は満足な武器もなく教育もせず、はるかに優勢な武器を持ち訓練された米軍と戦わされ、日本の将来を担う優位な若者が大量に戦死した。最後は婦女子まで動員し近代兵器に竹やりで向かおうとしたのだ。「大和魂」という武器だけで。

これと同じことが今起こっているのだ。企業戦士としての精神訓練を積まない若者が戦線に投入し始めているのだ。結果はマスコミの報道通り、鬱、自殺の悲しい結果である。何時の世も被害者は底辺の若者なのだ。又それを無責任に煽るのも何時も大手マスコミだ。

自意識ばかり旺盛で軟弱な精神の若者ばかりでは、戦闘にならない。
ロマン主義的平和論では厳しく残酷な戦場では生きていけない。企業はいつも戦場の真っただ中にいる。特に我々不動産管理仲介を主たる業務とする処では、社員をいかに鍛えるかが生き残る最大の課題である。強い企業には頑強な社員がいる。ロイヤルティーを持った強い社員こそ人財なのである。

                                                                                  社長   三戸部 啓之